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この前テレビのキャスターたちが交わした会話に驚いた。
「夕べ、エアコン無しで過ごしたんですよ」
「えーっ! 大丈夫でしたか?」
「まあ、何とか」

まるで宇宙でヘルメット外してみた級の驚きようと得意満面ぶりである。
え・・・・・、エアコンがあったことが無い我が家はもはや、
都会人どころか人類はおろか、大気圏外の生き物だったんだ。

原発停止の声が高まり、計画停電の恐怖が迫り来る今、
まるで嫌がらせのように、暑い日差しが早々と襲いかかる。
だいたい、何で余震も福島第一原発の近所ばかり狙われるんだか。
どうやら日本人は、試されとるな。

で、エアコンなしで我が家がこれまでどう生き延びて来たか、
取りあえず思い出したので、書いておく。
また思い出したら書く。

その1
とにかく水を浴びる。
何しろ体温を下げればいいのだ。
動物園のシロクマよろしく一日中水風呂に入ったり出たり、
シャワーを浴びたり。
タイ人など、しょっちゅう水を浴びている。
気がつけば、服ごと水浸しになっていたりするから丈夫な人たちだ。
その点、さっき水シャワーを浴びてみたら、
ひやりと寒かったので、
まだ暑さはそれほどではないとみた。

その2
ゴザで寝る。
日本にも花ゴザ、寝ゴザと美しい織り方のゴザがあるが、
ベトナム人にとって、ゴザは敷き布団そのものである。

ホテルはもちろんマットレスを敷いたベッドだが、
これがまたナイロン製ですこぶる暑苦しい。
私は思わず掃除用具を借りて自分が納得いくまで床を磨き、
市場で買って来たゴザを敷いて床に寝たものだ。

そう、現地の民家では床に寝る
それも一般家庭やホテルの床はたいてい陶製タイルだ。
これに一晩中、冷却と蚊避けを兼ねて扇風機をブンブン当てる。
もう、明け方には冷えきって、胃けいれんを起こしたことさえある。
しかも背中がバキバキに痛い。
なのに数日も過ごすうちに、この刺激がたまらなく良くなる。
背筋もピンと伸びて体調すら良くなる。

あるいはパイプ製ベッドに寝るが、
これもマットレスはなく、スノコの上にゴザ、
日本の巨大なお膳のようなボーバングーという縁台状の寝床にもゴザ、
そして蚊帳を吊る。
やはり涼しく、背筋が伸びる。

更にはハンモックや縁台、サマーベッドまで駆使して蚊帳を吊り、
屋外で眠る猛者もいる。
前にも書いたが、当時の彼の国には電気がろくになかったので、
エアコン生活などあり得なかった。

敷き布団やマットは人類に必ずしも必要ではないのである。
らしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんな訳で、この日の私が食べたのは、

・チャーシューと八竹煮丼
 冷蔵庫にあった常備菜を、ご飯に載せて食べた。
 案外食が進んで美味。

 

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夫がデジカメ講座を始めました。
もちろん、ただ撮影するだけじゃなくて、
思いっきり町歩きです。

今回は、「鶴見線途中下車 高度成長時代の名残の日」

国道駅の魚市場、コンクリート長屋 沖縄町など、
散歩の達人誌取材などで、津々浦々歩き回る私たち夫婦の足取りを、
一緒に体験していただきながらの、カメラ教室です。

後日、講評会も催します。
どうぞおいで下さいませ。

風カルチャークラブ
0120-987-553 

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やっと原稿が書き上がった。
爽快な気分だ。やっぱり。

長らくあいてしまったが、ベトナムの電気無い話の続きを書く。
私が通っていたのは1990年代前半から後半にかけてなのだが、
毎回必ず滞在させてもらう家が、数軒あった。
そのうちの一カ所は、本当にへんぴなど田舎で、
電気が全くなかった。
それどころか、電話さえ、自転車に2人乗りして数十分の隣町まで行って、
貴金属店に貸してもらいに行くのだから、
半日仕事なのだった。

数年通ううちに、電気の無い生活にはずいぶんと慣れた。
ここは未開の地なのだろうと、勝手に思っていた。
ところが、数年経ったある日、驚くべきことが判明した。
「20年前のベトナム戦争まで、この村には電気が通っていたんだ」。
村の青年に聞かされて、あぜんとした。

バブル真っ盛りの日本では、「人間は進歩して発展し続けなければならない」と、
当たり前のように言われていた。
「何で進歩しなくちゃいけないの?、昔に戻っては駄目なの?」と、
いくら私が村やベトナムで体験してきた「祖末な暮らし」を、
思い浮かべながら疑問を呈しても、
誰もが「そんな訳にはいかない。不便な暮らしに戻れる訳がない」と、
断言していた。
(もっとも、当時でさえ、現代ほど便利でもなかったんだけどね。
パソコンも携帯電話もそれほど普及していなかったし)。

だからこの「昔は電気があったのに、今はなくて、でも普通に生活している」
この事実を知った時の驚きと喜びはなかった。
人間は、一気に時代を引き戻されても、ちゃんと生きていけるんだ。
それを目の当たりにしたのである。

今回の大震災でも、戦争と同じようにすべてがなくなった。
宮城県の小さな漁村で避難生活を送った漁師の知り合いによれば、
「皆で残った家に共同生活して、山の水を汲み、火をおこして飯を炊き、
がれきの下から食べものを見つけては皆で分け合い、
自衛隊も待っていられないので、
昔の山道を自分たちで削って車が通れる道路まで作った」という。
彼らにとっては、未知なるサバイバルじゃなくて、
少し前まで、いや今でも続けているかもしれない、
当たり前の生活の延長線上に、避難生活はあったのだ。

人は昔に戻れるのだ。
自信を持っていい。

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by sibamataumare | 2011-06-22 16:43 | ベトナム | Comments(0)

日本の過疎村で、思い切り「昔の暮らし」をする人々に出会って、
びっくりした私たちは、
今度はベトナムにのめり込んで、1990年代の数年間通った。
過疎村でさえ「昔話」だった「昔々の暮らし」を、
当たり前のように誰もがしていたからだ。

何より驚いたのは、「電気はしょっちゅう止まるもの」だった。
ホーチミン市のような大都市でも、
「昼間は明るいから無し」っていうことになっているのかと思うほどだった。
だから、家の冷蔵庫には、氷と飲み物ぐらいしか入っていなくて、
食べものは、必要に応じてマメに買っていた。
夜だって、「あら、停電」っていう位、普通にろうそくが出て来た。

村に行けば、電気そのものがなかった。
朝は早くて、夜は暗くなると一日の終わりが近づいた。
暑い午後は昼寝だ。
初めて訪れた家で昼食後、「さあ寝よう」とベッドに案内されたことには驚いた。
夜になると人々は小さなアルコールランプを持って暮らし、
闇は本当に暗かった。

私たちは、毎回民家に滞在することが多かったから、
電気をあてにしない生活を、存分に体験することができた。

もちろん。洗濯に炊事にと、女達は一日中台所にいたし、
田畑を耕したり、物を運ぶのはのんびりした牛だったり、
日本から見ればすこぶる不便なのだろうけど、
でも皆、ちゃんと日常生活を送っていたんだよなあ。
私たちも、ちゃんと普通に生きていたし。

あの頃のことを思うと、
何でこんなに電気が必要だと思ってしまったのか、
考えてみれば不思議だ。

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by sibamataumare | 2011-06-16 21:58 | ベトナム | Comments(0)

このブログには、あまり立ち入ったことは書かないでおこうと思っていたけど、
やっぱり書いておく。

ええっと、まず電力のこと。

1980年代の生活を覚えているだろうか?
結構便利で楽しかったと思うが、
当時の「一世帯あたりの電力消費量(1ヶ月)」は、185.0kwh.
そして2009年度はというと、283.6kwh。
(電気事業連合会HP「でんきの情報広場」より)
これでも省エネ仕様の電化製品が増えたせいか、
2000年代の300kwh越えを免れている。

ついでに1970年は、118.8kwh。
電力消費量が少なくて、そんなにみじめな生活だったかなあ? と、思う。

ふーん、と、この資料を眺めてから、我が家の電気代請求書を見てみた。
6月分は222kwhだ。
1985年の生活をしているのか、うちは。
でも思った以上の数字だ。
ファックスやパソコンがある分、以前よりは多めになっている。

冬はコタツ代、夏なら扇風機1〜2台分がもう少し加算されるだろう。
でも一年を通じて、それほど変わらない。
何しろ私は、エアコンのある暮らしをしたことがないのだ。
電子レンジも炊飯器すら持っていない。
こんなことで胸を張れる日が来るとは、さすがに思っても見なかった。

バブル真っ盛りの頃、某電力会社から講演依頼があった。
その頃流行の環境フォーラムで、数百人を前に堂々と語ったものだ。
「電気は使わない方が良い。それには省エネなんて生易しいもんじゃなくて、
電化製品を持たないことです」。
担当者がその後、どんなことになったのか、私は知らない。
でも当時は、全く見当外れな「ズレた奴」扱いだったと思う。

巷はイケイケムード、ジュリアナ東京のお立ち台で女達が踊り狂っていた頃、
私は真面目な顔で、山の水で飯を炊き、肥を担いで畑に向かう
「過疎村の暮らしの素晴らしさ」を、一生懸命説いて歩いていたのである。

そうそう、話を戻そう。
あの頃、しきりに引用していた資料があったのだが、
どうしても思い出せなかった。
そこで、今、あっちこっちを探してみると、
この資料が見つかった。

下の2つのグラフを見ると、
戦後から1970年代までに日本の一次エネルギー供給量は急激に伸びて、
その後はなだらかになっている。
そして1970年代から、原発がじわじわと増えてくるのだ。
「日本の一次エネルギー供給の長期推移」
「日本の一次エネルギー供給構成の長期推移」

だったら、ものすごく乱暴かつ単純に考えれば
1970年代の暮らしに戻れば、原発は全然必要なくなるわけだ。
手っ取り早く、電力消費を減らす方法は、
新たに省エネグッズを買い込んだりすることではなくて。
それぞれが昔の生活を思い出すことだ。

やっと思い出した。
1980~90年代初頭に全国の過疎村を巡り、
1997年に「ニッポンの村へゆこう」を出版して、
各方面で講演活動をしていた頃、
「生活を20年戻せば、エネルギー消費量は半減する」という資料を見つけて、
よく引用していた。今思い返すと、それはこんな内容だったのだ。

もちろん科学技術だの何だのが進歩した今、
1970年代にまで引き戻さなくても、
ちゃんと電力は足りるはずだ。

夏は暑い。
冬は寒い。
夜は暗い。

ただそれだけの暮らしだ。

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今日は東京湾漁師町ツアーの、
千葉県木更津市金田の盤州干潟観察を開催した。
楽しかった。

ご参加くださった皆さま
講師の漁師、斉藤高根さま
ホテル三日月と潮干狩り場の皆さま
風カルチャークラブの島田さん、
本当にどうもありがとうございました。

この続きはまた後で。
取り急ぎ、ご報告と御礼まで。

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ばたばたして、東京湾漁師町ツアーの羽田編の続きを書きそびれていた。
まあ、結果的には、漁師のお父さんのいう通り、
東京湾の入口方面から数日間吹き続けた南風のおかげで、
潮があまり引かなかったため、
貝の生息する浜があまり出なかった。
なので、あまり貝は取れなかった。
ご参加くださった皆様、すみません。

でも、これが都内とはいえ、
「海」という自然相手に漁をする漁師の日常なのだと、改めて実感。
風向きと潮加減を見ながら、漁場を探し歩き、漁獲量を推し量る。
単に「潮見表で引き潮だから潮干狩り可能」というのは、
人の手を加えた潮干狩り場でのことなのだ。

でも文字通りの頭上を航空機が飛び交う,あり得ないほどの非日常空間に、
いるだけでも相当面白い一日だった。

そして圧巻だったのが、帰り時間だ。
参加者が潮干狩り中、私は漁師親子と小舟のあたりで四方山話をしていたところ、
さあーっと冷たい風が吹いた。
「お、風が変わった。帰ろうっ」
お父さんが顔色を変えた。
それまでののほほんとした空気が一変したのだ。

見れば西の空に黒い雲のかたまりが迫っている。
漁師親子にせかされつつも、私はまだのんびりしていた。
ついにお父さんが「早く早く」と、本気声になった。
そこで一同、船に飛び乗って、京浜運河の帰路につく。
すると、雨がポツポツとやってくるのだ。

でもこのツアーには、「晴れ女」もとい、
「私は雨は降らない女なんです」という心強いお客様がいらして、
船上は「漁師の予感」VS「雨は降らない女」の対決となった。

そして船が桟橋に着岸したとたんに、雨脚は強くなり、
小屋でお茶をいただく頃には、本格的に土砂降りとなった。
恐るべし、「漁師の予感」そして「雨は降らない女」。

いつも漁師さんの天気予報には、驚きと感動の連続だ。
鹿児島の離島でも「雨が降る。帰ろう」といきなり言われて、
家に帰り着いたとたんにざっと来たり、
東京漁師も、「お、午後は雪だ。引き上げよう」と、
帰りを早めたりする。そして降る。
23区民でありながら、自然を読みながら日々生活をする人たち。
そんな感性を体感できるのが、
東京湾漁師町ツアーの醍醐味だと、思っている。

明日は、千葉県木更津市金田のアサリ漁師さんに、
東京湾最後の完全型干潟「盤州」を案内してもらって、
潮干狩り場でプロ漁師による本気の貝掘り講座をしていただく。
晴れるといいな。

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6月の東京湾漁師町ツアーが迫ってきました。

「都会の台所、通勤電車で漁師町へ  -木更津漁師と盤州干潟・潮干狩り」

日時:2011年6月5日(日)10時~15時
場所:千葉県木更津市金田盤洲干潟
問い合わせ:風カルチャークラブ 0120-987-553
講師:フリーライター眞鍋じゅんこ 漁師&木更津海苔師の会会長斉藤高根

5月8日(日)に行われた私たちのスライドトーク
「三陸と東京湾の漁師町 大震災以前の姿から」
のゲスト講師である木更津の海苔&アサリ漁師、斉藤高根さんに、
子どもの頃からの遊び場であり、仕事場である盤洲干潟を案内していただきます。

 東京湾最後の完全形の干潟は、驚くほど美しく、生物の宝庫です。

 最後にプロ漁師の指導による潮干狩りと生物探索、アサリ汁試食も楽しみです。
まだ若干名余裕がありますので、どうぞお越し下さい。

 こんなご時世だからこそ、時には、生産者側の立場から世の中を見てみませんか?

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